院長ブログ
帰去来Ⅹ(後篇)
(前編)の続き
その次は大島最南端にある竜舞崎に行きました。気仙沼には似たようなロケーションの唐桑に御崎がありますが、それと比べて竜舞崎は観光地として今まで車で来ることが一般的ではないため、駐車場、飲食などのキャパシティが小さいですね。
この日の竜舞は突風にもかかわらず海面は穏やかでした(写真1)。寒かったの突端までは行かず、灯台周辺の写真を撮って(写真2)、来る時と反対側の海岸線を通り浦の浜を経由して大島大橋を内陸方向へと渡りました。
さて、大島はこれからも今まででは想像できない多数の観光客が車で観光に来るでしょう。ですから受け入れの体制(大規模な駐車場や施設とか)を整えざるを得ないでしょうが、ホテルや道の駅より民宿や遊歩道のままでいい気がしますね。プーケットはアンダマン海、モーリシャスはインド洋の真珠と言われているようにいずれ大島が太平洋の真珠と呼ばれてみたいです。
橋を渡った帰りは来た道を戻りましたが、今度は三陸自動車道となる建設中のどでかいブリッジが目の前に現れます(写真)。今さっき大島大橋を渡ってきたばかりなのに、今度は縦貫道ですか---。あまりの壮大さにまた絶叫しました。高級寿司屋でお寿司を食べたと思ったらすぐ盛岡の激ウマ冷麺が出てくるような、『恋つづ』ダイジェスト見たらすぐ『テセウスの船』の犯人検証番組が始まるみたいなあまりにもビッグインパクトが連続するので驚きだらけでした。いい意味でこれから気仙沼はどうなるのでしょうね。早く気仙沼湾の大架橋を走ってみたいです。
帰去来Ⅹ(前編)
春分の日はお彼岸でしたので気仙沼に帰ってきました。風が猛烈に強かったのですが、大島大橋を渡って大島まで行ってみることにしました。開通当時は大橋までの道標が少なく悪評を買っていましたが、この日はそんなことはなくスイスイ行くことができました。
大学病院勤務当時、鹿折地区にある光が丘保養園という病院の歯科に出張で通ってましたが、あらかたその方向へ進んだもののいきなり高架となり、光が丘を眼下に見ながら進む新道路にびっくり。 やがて大橋の手前に到達し(写真1)、その威容に2度びっくり。この素朴な地域にこんな巨大な建造物ができるなんてどうしたって実感が湧きませんね。
大島と言えば幼少の時から遊びに来てましたが、まず実家の近所の船着場から汽船で大島に渡り、バスに乗り換え小田の浜海水用場で泳ぐか、船着場のそばからリフトで亀山の頂上に向かうと言うパターン。家から近い割には手間がかかり、行って帰ってくるだけで一つのイベントを完結するようなところでした。それがもう車で楽勝ですからあっけなさに気が抜けました。ですから絶叫しながら橋を渡って振り返ると(写真2)気仙沼市街が容易に眺めることができてこれも何とも言えぬ不思議な感覚でした。
そこから道なりに進むと、かつて汽船の船着場だった浦の浜に出ました。大島の玄関口でしたから汽船の券売所やお土産屋さんの建物が立ち並んでいたはずなのに、津波で流され、汽船も廃止になってますので今は道路一本だけになってました…。もちろんバスの乗り場もなく、まるでつわものどもが夢の跡…。
次に向かったのは夏となると子供の頃から医局員時代まで通った小田の浜海水浴場です。ただの海岸線が続く中で「小田の浜駐車場」の看板を見つけて驚き。その周辺は小田の浜海水浴場だったはずですが海の家は皆無で、砂浜は消滅、もう海水浴場の体をなしていないただの海岸でした(写真3)。津波でみんな持っていかれたんでしょうかね---。結構ショックでした。
(後編)に続く
またこの日
今日は気仙沼の実家に米を送るために向かいのA コープさんにある精米機(写真1枚目)で精米し、隣のセブンイレブンさんで発送してきました。 いつも思いますがここはとても恵まれた環境です。最近は玄米食が多いですが、栗原のお米は美味しくて、挽きたてのご飯は最高です。
しかし…こんなことはなんでもないいつもの当たり前のことですが、それが幸せなことなんだと思い知らされたのは9年前の今日です。あの時はご飯さえ炊けませんでした。また実家といっても自分が生まれ育った気仙沼の生家は、震災の津波で流されて今は存在しません。その土地は更地となりそして現在は災害復興住宅が建っています。村井知事さんは先日の会見で、「見えるところ(建物、インフラ)での復興はほぼ終わっていると思うが、心の復興はまだまだだ。」と言ってましたが、まさにその通りですね。心のよりどころを失った虚無感は一生続くことでしょう。
写真の2枚目は、震災直後倒壊した実家から着の身着のまま持ち帰った窓の桟です。自分の「家」の形を残すものは今はこれしかありません。いまだに実感がわきません。
青息吐息
新型肺炎の勢いが収まりません。その影響があらゆるところに及んでいます。
我々の歯科医療にとっても深刻です。当医院では1月に中国で謎の肺炎が流行し、中国からの観光客が成田空港でマスクを買い占めたと言う情報が出たとき、とっさにSARSのことを思い出しマスクの長期使用分を発注しました。運良くすぐ入手できたものの、その1週間後には在庫はほぼ無く、入荷は未定という知らせが入り絶句しました。今も入手不可です。当面現状でやりくりできるかもしれませんが今後どうなるか、予想がつかず困った状況です。
さらにSARSの時はマスクだけでしたが、今回は消毒用アルコールが不足してるのにはあ然としてます。SARSのときも手指消毒用のポンプ式アルコールはある程度不足しましたが、今回は医療用の消毒用アルコールまでが入手不可となっています。当医院では院内の器具や手指の消毒にはアルコールとウィルスに対して効果的なAP水(中性電解水)を併用してますので、アルコールが途絶えたとしても対応できますが、AP水は取り扱いが繊細なため我々の負担が増します。かと思えば我々が日常使用している医療用手袋(グローブ)までもが不足していると言うでは有りませんか。市井の感染症であらゆる医療がここまで脅かされるのは全く初めてではないでしょうか…。ほんとに驚きです。新型肺炎の一刻も早い収束を願っています。
月見草散りぬ
嗚呼、もうあなたの「考へ」を聞くことができなくなりました。なぜあのピッチャーがあの時あのコースにあのカウントであの球種を投げたため敗戦投手になったのか、なぜチャンスの時、代打に出すつもりもないバッターをネクストバッターズサークルで素振りをさせたのか、なぜ草野選手が2球ストライクを見逃した後、逆コースのストライクをサヨナラヒットにできて、彼を天才と評したのか、そんな誰もが思いつかない理論をだれもが納得できるようにぼやきで聞くことはもうできなくなりました。
かつて西武とヤクルトが日本シリーズで死闘を繰り広げた後、週刊誌上で両チームの監督が対談しました。その記事を読んだ時、「野球のことならなんで知ってるさ。」とヲタクを自負していた自分にとって「難しくて何言ってんのかわかんねえ。」と自分の浅学さを思い知らされたことを覚えています。当時の西武の監督はキャッチャー出身の森祇晶氏でしたから、野球理論の濃さでいえばマックスでしたね。
わが楽天の監督に就任直後、ラジオでとある野球解説者が「頭使うだけで勝てるほど野球は甘くはないです。」と言ってましたが、今では「頭を使わなければ勝てない。」のが常識となっています。また多くの著書を書いてますが、よほど野球のデータばかりが掲載されてるのかと思いきや、そのへんの啓発本を圧倒するほど供覧に値する内容ばかりでした。「人は変わらなければならない。しかし変わろうとしないのには3つの理由がある…。」「残すべきものは財産ではなく人だ。」などいまの自分の私生活あるいは仕事でとても刺激になっていることは言うまででもありません。もちろん今のプロ野球を見渡してもその教え子たちであふれています。侍の稲葉監督しかり、楽天の三木新監督しかり、ヤクルトの高津新監督しかり。江本孟紀氏、江夏豊氏、古田敦也氏、石井GM…。
もう一つ。パ・リーグ、とくにかつての南海なんかはスター軍団の巨人と比べればカスみたいなものでした。ドラフトで巨額の契約金で入団したエリート選手と比べれば、テスト生入団でクビ寸前までも経験した一兵卒なので、セ・リーグ特に巨人に対する競争心は尋常ではなっかったことは超有名です。ですから昔から傲慢でわがままな巨人に反発してきた私にとって、巨人のONを試合で苦しめマスコミでいじるのを見るのが痛快でなりませんでした。よく「天才は1%の才能と99%の努力」と言われますが、『ONは天才だから』と評してた本人が実は最強の天才だったのではないでしょうか。
楽天が初のCS進出したのにもかかわらず監督の契約を延長してもらえなかったのは、故野村沙知代夫人と球団との折り合いが悪くなったためという話がもっぱらですが、夫人が全てお世話していたので、先に亡くなってしまったことから「一人で大丈夫かなあ。」と思ってました。やはり男寡ではなかなか大変だったのでしょうね。最近は確かに目に見えて衰えていましたし。とにかくがっかりです。
野村克也さん心よりご冥福をお祈りいたします。